不安や絶望感から心が救われるために必要なものは思想にある
昨夜、深夜に目を覚まして、そのあとなんだか眠られずにいろんなことを考えていたんです。
そこで、一つの結論が、この記事のタイトルの通りで、人が不安や絶望感に心がつぶれそうになったときに、そこから人を救うのは宗教や哲学的思想とか、スピリチュアル的な考えなのだろう…と、そう考えたのでした。
つまりは宗教もそうだし、哲学的な考え方だったり、様々な思想、スピリチュアル、そういったものがこの世からなくなってしまったときに、人は恐怖や絶望から救われなくなってしまうんじゃないかな…と。
つまりは、たとえそれが一見、無意味に思えるものであっても、存在することで多くの人は救われている。たとえ、非現実的に思えることであっても。
そんなことを考えていたら、何となく眠りについたのでした。
今回はなぜそんなことを考えることになったのかという経緯と、結局私が落ち着いた、私がもともと考えている私独自の思考について記事にしたいと思っています。
なんだか最近落ち込んでいる方、閉塞感を感じている方、絶望している方、の参考になったら良いな。
この記事の目次
なんだか絶望感に似たものを感じていた夜、ふと基本に返ったこと。
ふと、絶望感に似た感覚を味わっていました。昨夜、深夜のことです。
なんだか、もしかして、私が子どもたちを産んだことはとんでもないことをしてしまったのではないか…という気持ちだったんです。
最近耳にする環境問題のこと、政界での人口が増えすぎていることと、日本では少子高齢化が進みすぎていて、子どもたちは将来的に大変なことになるであろうこと…そんなことを考えていたのです。
海外の子どもや若者が、環境問題が大変だから、自分たちは子どもを残さない、と言っている記事を目にしたことがあるのですが、そう考えてしまうのがわかる気がしました。
私は、自分の子どもが欲しいと思って子どもたちを産んだのだけれど、これだけ日本では少子高齢化が進んで経済が衰退している、そして、世界では環境問題が非常に危機的な状況である。
こんな世の中に子どもたちを産んでしまって、子どもたちは将来的にものすごく苦労をしてしまうんじゃないかなって、そんなことを考えていたのです。
私は良いけど、無責任だったんじゃないかと…。
そんなことを考えていても仕方がないし、そんなことは一切気にせずに生きている人だってたくさんいるのだけど、そう考え始めると気になってしまって。
とはいえ、それじゃあ、この世は終わりなの?
いやいやそんなわけない。
だけど、どうなる?
そんな途方にもないことを考えていました。
ほかにも気になることがあるので、それもあったのだろうけど、なんだか寝られなくなって…。
そこで、ふと我に返って基本に戻ってみようと思ったんです。
基本というのは私が「きっとこうだろう」と思っている思想のことで、それが私の基本的な考え方だから、ごちゃごちゃいろんなことが気になった時はその基本に変えるのが一番なんです。
私の生きる価値観の中では。
なので、基本に返ってみました。
そもそも、人が生まれるのはこの世界を、生きることを楽しむためです。
この世界で楽しんで生きるために、この世界でこうやろうという目標をもって生まれてきます。それを実際にするかどうかは生まれてから生きる中で決めること。
つまり、今、このように環境問題なり少子高齢化問題が起こっていることも、これまでに生まれてきた魂がこの世界を楽しむためにしてきたことの結果です。
それじゃあ、この世界の中に生まれてくるということは、おそらく、これらの問題を解決することを目的として生まれてくる魂がたくさんあらわれてくるだろう、と考えることができます。
これらの課題を解決することを目標にした魂たちが、それぞれに得意とする分野をもって続々と生まれてきて、解決しない人生を歩む者もいれば、想像を絶するような新しい解決策を生み出す者も出てくるのだろう…と。
もしかしたら、すでにその兆候が出ているかもしれないし、これから圧倒的な解決策が生み出されるのかもしれない。
だけど、そうなってくると考えたら、あぁ、きっと大丈夫なのだろう…そう思えたのです。
というか、そもそも私がこうやっていろいろ考えているけれど、私の子どもたちだって、何かwオしようと目的をもって、この世界を楽しむために生まれているのだから、子どもたちは子どもたちで、自分の思う道を生きていくということ。
そう考えると、「無責任だったんじゃ…」なんて自分のことを責めて考えていること自体がばかばかしいことだということに気が付いていきます。
そうやって考えていると、あぁ、やっぱり、こういった科学的に立証されているかどうかもわからないような思想だったり、宗教も、スピリチュアルの教えも、すべては人が恐怖や絶望感に襲われたときに、そこから人を救うことができる、大切なツールなのだろう…とそう思ったのでした。
科学的に証明されているかとか、物理的にあり得るかあり得ないかなんて言うことよりも、大切なものは思想の中に存在している。そう思います。
人はなぜ生まれるのかに思いをはせてみること
人はなぜ生まれるのかということに思いをはせてみることはとてもおもしろいことだと思います。
それはただの「種の保存である」と考えることもできるし、何か宿命を背負って生まれていると考えることもできる、輪廻転生を繰り返し、魂が成長していくため…でも良いじゃないですか。
正しい正解なんてものはないのだと思うんですね。
自分自身が「これだ!!」としっくりくる考え方が正解です。それしかありません。
私はアインシュタインの相対性理論を知ってから、これって物理的なものだけではなく、すべてに当てはまることで、すべてにおいて相対的に結果は変わるのではないかと思っています。
だから、何かの結果も相関関係というように絶対的に固定はできないのであろう…と思っています。
対象者や環境によって変わるのが当たり前なのに、人はなぜか、みんな同じ、変わらないことが当たり前のように考えてしまう。
だけど、それは「同じだろう」と考えてしまっていることが実は勘違いで、人によって違うということを知っているだけで世界の見え方が変わってくるのだろう…そう思うのです。
という、この考えも思想の一つ。だけど、こういった思想が人の心を救う。とても面白い。そうは思いませんか?
私の思想の一つ
私が考えている、人はこの世界を楽しむために生まれているというのはもっと細かく言うと、人は魂の状態からある程度、目的をもって生まれていて、そのために今生きているあなたという個性を持った人を創っている…という考え方です。
そうやって自分の理想通りの人を創って、その人を守り、その人を動かす神様となってのどに入って、それで一人の命を吹き込まれた人間となる…というストーリーです。
それが、「のどぼとけ」と呼ばれる、のどの部分に仏様が座禅を組んでいる形をした骨がある理由だ、という考えです。
だって、なんでわざわざのどのところに人の形をした骨があるの?って思いませんか?
第二頸椎という、とても大事な部分が、人が座禅を組んだ形をしているんですよ。
この考えが本当か本当でないかはどちらでもよくて、そのように思想をもって、だから人はこのように生きるとか、だから人は守られているとか、そんなことを考えることも、心が救われて心豊かに生きられるのであればとっても良いことなんじゃないかなって思うんですよね。
生きていく中で直面する不安や絶望感から救われるような思想の存在は大切だ
人が生きていくなかで、だれしも不安に襲われたり、絶望感に打ちひしがれたりする経験をするだろうと思うんです。
もしかしたらそんな経験ない人もいるかもしれない。でも、ある人もきっとたくさんいるでしょ?
そういう時に心が救われるものがあると、それってとても良いことだと思うんです。
それでマインドコントロールするとか、誰かを支配するとかっていうのは全く別の話で。支配するためにそういうものを使うことはそれ自体が恐怖だけど。
でも、そういうことではなく、心が救われて、それで落ち着くことができたり、それで豊かな心で生きることができるのであれば、絶対に必要なものなのだろう…と、そう思ったのでした。
個人的に、人って悟りを開く必要はないと思っていて、いろんな感情をもってそれとうまく付き合って生きていくことが良い人生であると考えているのですが、その、うまく付き合って生きていくための一つの方法が、こういうものだと、そう考えるのです。
というわけで、今回は昨夜考えていたことの話でした。
それでは。
土出麻美でした。
そんなこんなで今日は非常に眠たいです…。