「喉神」という違った視点から自分をとらえなおすことで個性や特性(自分らしさ)を受け入れて望む生き方を創っていく。土出麻美のエッセイブログ

幸せとは何なのかについて考えずにはいられなかった出来事

 
この記事を書いている人 - WRITER -
「Yes★喉神サマ⁈」の著者。 小学生と中学生の母親で義母のお世話もしている主婦。 社会福祉士の国家資格を持ち、福祉施設や行政機関で支援員・相談員の経験あり。結婚出産育児をきっかけに自分の心の闇と向き合うことになり、それがきっかけでヒプノセラピーやヒーリングなども学んだ。 県の男女共同参画アドバイザー養成塾を修了。
詳しいプロフィールはこちら

幸せとは何だろう?
どういう場合のことを幸せと言うのだろう?

そういったことを考えずにはいられない出来事が起こったのは数カ月前のことで、それを語るには少しだけ、私自身の心の整理と落ち着くための時間が必要だった。(実際にはこれを書けるようになって書き始めてから個人的事情でしばらく書けなかったり…で投稿までに1カ月以上かかっている。)

数カ月と言っても、2カ月ほど前か、3カ月?それともひと月しかたってないんだろうか?わからない。

幸せとはどんなことを言うか、それは、各個人がどのように感じるかに他ならないことで、明確な答えなどというものはないことはわかっている。

とはいえ、たとえば、例えば…だ。
ものすごく刺激的で充実した日々だけれどもすごく短いのと、安定して緩やかで大きな喜びというほどのものはないのが長く続くの、どっちが幸せと言うのだろう?

それがどちらが幸せかというのも、各個人によって違うのだろうけれど、どっちが良いのだろう??

わからなくて、考えても答えはなくて、ただどうしようもなかった。

幸せだったのだろうか?と考えずにいられなかった

予想外…という言葉はしっくりこない。予想できる範囲内で予想外な出来事だった。予想外とは、どの段階でのことを言うのだろう?

信じられないというか、信じたくない出来事が起こった。

「ウソぉ…」

力が抜けていくのか感情が高ぶるのか、どちらともいえない言葉が勝手に口から出てきて、行き場なくその場を漂って消えた。

私の視線の先には横たわったその顔があった。そんなところから、ひょっこり顔を出して…。

うさぎを飼い始めた

またウサギを飼い始めようとなったのは、別で暮らしていた義母と一緒に暮らすことになった年の初夏だった。

長年1人暮らしをしていた義母だったが、一人で暮らすのが難しくなったからだ。

もともと家族…というか一緒に暮らしていない人が一緒に暮らすようになるというのは、最初はいろいろと苦労するもの。結婚した時にもそれを感じた。

もちろん大変なのは私だけではない。急に長年暮らしていた家を離れることになった義母もそうだし、急におばあちゃんと暮らすようになった子どもたちもそう。夫も、ただ息子であった時と違うわけだから大変なのかもしれない。

それまで子どもたちと結構自由に出かけたりしていたのもちょっと行きにくくなり、旅行も行けなくなった。

気を使って家の中や外を触る義母だったけれど、私はそれまで自分の自由にしていたものを勝手に触られて勝手に変えられるような感覚でいた。自分のテリトリーを触られるような感覚だ。良かれと思ってやってくれていても…。
でも、早いうちに諦めた。

そんな日々のなか、気分転換にウサギを飼うことにした。

もともとウサギを飼っていたんだ。ずいぶんと長生きした。もうすぐで14歳になるという10月に命が尽きてしまった。(この子と同時に飼っていて8歳になくなってしまった子もいた)

それからはウサギを飼うのではなく広島県にある大久野島、通称「うさぎ島」に旅行に行ったりしていた。

義母さんと暮らすようになって、旅行などでかけることが少し難しくなった。うさぎ島にウサギに会いに行くことも難しくなったし、ウサギさんを飼おうか…そんな流れだった。

長生きは出来たけれど、幸せだったんだろうか?

新しく我が家に来た小さなウサギさんはとてもかわいらしかった。茶色いフワフワの毛並み。よく人になついている子だった。

ウサギは、もともとは穴で暮らす動物だけれど、ペットとして自宅で飼う時には通常、室内飼いをする。室内なら、管理がしやすい。温度だってちょうど良い温度を保てる。その方が長生きができる。だから、長年飼っていた子も室内で飼っていた。

だけど、ウサギとはもともとアナウサギ。外で穴を掘るのがすごく好きだということを知っていた。だから、長年飼っていた子が死んでしまった後、ずっと考えていた。

長年生きられたけれど、この子は果たして幸せだったんだろうか?

ずっと考えていた。

安定して暮らせる毎日が長く続くことと、たとえ長生きできなかったとしても、思いっきりやりたいことをして楽しい毎日を過ごせること、どっちの方が幸せなんだろう?

普通は寿命7~8年と言われるのを、倍近くの14年近く生きたけれど、本当は、もっと思いっきり穴を掘ったりできた方が幸せだったんじゃないのだろうか?特に大きな幸せを感じることなくただ長く生きたことは幸せだったんだろうか?

そんな疑問が後を絶たず、ずっと頭の中をまわっていた。

新しく家族として加わった、かわいらしいウサギさんを見るたびに、それを思い出して考えた。

この子は今のまま、家の中で暮らしている方が幸せなんだろうか?もしかして、少し命が身近くなったとしても、外で穴を掘ったりした方が幸せなんじゃないだろうか?

ちなみに、長年飼った子は生殖器の摘出もしていた。ウサギさんのメスは生殖器から病気になって死んでしまうことが多い。手術をしてとってしまっていた方が長生きできる。

それについても考えていた。自然のまま、ありのままの状態で生きるのと、取ってしまって長生きできるの、どっちの方が幸せなんだろう?

私がその方が良いと思ってやったことは、結果的に確かに長生きは出来たけれど、それは本当にこの子にとって幸せだったんだろうか?

疑問が拭い去れないまま考え続けた結果、今回迎えた子は、手術もせずに、外で穴を掘ったりもできる環境にした方が幸せかもしれない…そういう答えに行きついた。

思いっきり好きなことをできるであろう環境

穴を掘ることができて、好きに暴れることができて、手術もしない。でも、外敵からは身が守れるようにネット等で囲んだ2畳ほどの場所で、雨にもあたらない環境を準備した。

ぴょんぴょん跳ね回り、喜んで一生懸命穴を掘っていた。喜んでたのかな?喜んでいるように見えただけなのかな?とにかく掘っていた。

本能というもののすごさを知った。誰にも何も教えられていないのに、とても見事な穴を掘った。穴を掘って出た土は、きちんとならして整える。手で掘ることが難しいような土は、噛んで崩して行くんだなぁ…と知った。

ウサギの前歯は伸び続ける。だから、削らないといけない。適切に削られなかった前歯は口の中を傷つける。この前歯、ただ食べ物を食べるためだけじゃなく、硬い土を掘るためにも強くて伸び続ける歯なんだな…そんなことを思って見ていた。

掘る時間も、きちんと生活のリズムにのっていた。ぼーっとする時間は外でぼーっとしていて、忙しく掘る時間は忙しく掘っている。

食事を持っていく時間になると、はしゃいで走り回った。スペースに入るときに踏みそうだから、足元で走り回らないでほしかったけど、そんなことはお構いなしに走った。かわいい子だった。

冬は寒さをしのぐため、小さなホットカーペットを設置して、ビニールハウスをイメージしたビニールで気温が下がりすぎないように囲った。それでも寒かったけど、完全な外よりは暖かかった。

夏の暑さは厳しくて、日よけを設置して扇風機をつけたりした。凍らせたペットボトルを置いたりした。台風の日は家の中に避難。でも、外の方が落ち着くみたいだった。環境の変化に弱い生き物だからな…。

衝撃的な出来事。やっぱりどっちが幸せだったんだろう?

そんな日々を過ごしていた時、悲しい出来事が起こる。

茶色いウサギ(ちょこ)が調子を崩した。出血しているのに気が付いたんだ。外傷はない。子宮関係の病気になったんだと思った。ごはんも食べてない。

どうしようと思った。何とかできないかって。うちに来てから3年半を過ぎたころだった。こんなに早く調子を崩すなんて思わなかった。外で暮らすようになってからは1年半ほどだったんじゃないかな?手術をしておけばよかった?と思った。

病院に連れて行くと、「なんとも言えませんね」と言われた。エコーをとってみないとわからないと。

エコーをとってもらうと、子宮は何ともなさそうで、膀胱が炎症起こしてそうかな?という話だった。そんなに大したことなさそう、ということで薬をもらって様子を見ることになった。

少しほっとして自宅に帰った。薬は案の定すごく嫌がって、ほとんどちゃんと飲ませられなかった。少しは飲めたかな…?という感じ。でも、次の日の朝様子を見たら、少しマシになったかな?ちょっとは食べられるようになったかな?という感じだった。ごはんも喜んで走ってたし。

お昼間に見ても、まぁぼちぼち過ごしているのかな?という感じだった。

それから、夕方。

「晩御飯やでぇ」と行ったときに、衝撃を受けることになる。

呼んでも出てこない。
おかしい。
どこ?

お昼に見たときに潜り込んでいた場所に目を向けたとき、視界に飛び込んできたのは横たわった顔だった。目があいたまま、すぐ見えるところに顔だけ出すように倒れてた。

「ウソぉ…」

力がぬけるのか、感情が高ぶるのか、どちらなのかわからない感覚、餌の入ったお皿だけがむなしい重さを感じさせた。

いつも通りのペレットと、いつも大好きだったドライフルーツとグラノーラ。早く食べた過ぎて何回か間違って手を噛んだよね。噛まれるのがイヤすぎて、置くタイミングを良く見ておいた。「いつ置くの?」とでも言いだしそうな様子で走ってたね。

10月。ほかのウサギさんたちがこの世を去ってしまったのと同じ月に、命を終えてしまった。ちいさな、まだ若い命。

手の中で邪魔になってしまったお皿をおいて、顔だけのぞかせたちょこを救い出す。まだ温かさが残る、柔らかい身体。抱き上げると、大きな瞳が開いたままで、まだ生きていて動き出しそうなのに、動き出さない。

あぁ、ごめんね、ごめんね。私、あなたのことを守れなかったよ。

ごめんね。もっとケアしてあげられてたら、もっと生きられた?

こんなに小さいのに、まだまだ若いのに、命を落としてしまうなんて。

あなたは幸せだった?

考えずにはいられなかった。
たとえ好き放題できたとしても、こんなに短いのって幸せなんだろうか?
本当に好き放題できて楽しかったんだろうか?
特に刺激はなかったとしても、家でゆっくりゆっくりのんびり過ごせた方が幸せだったんじゃないだろうか?

でも、これってどんなに考えても答えが出ないものだった。答えは各個人によって違うからだ。何が一番良いのかは本人しかわからないってことだ。

幸せは何なのかの答え

何が一番良いのかは、本人が決めるしかない。それを人に伝えられるか、それを実現させることができるのかも、本人でしかない。

自分でそれをすることができない立場であれば実現はできない。今回飼っていたウサギさんも前回買っていたウサギさんも、本人で決めることはできないのだった。

自分で実現することができない弱い立場の者は、与えられた条件で生きるしかないということだ。

それから、今はウサギは飼えてない。だって何が本人にとって幸せなのか、何が一番良いのかがわからないのだから。どんなに考えたとしても、私自身の主観で与えた条件でしか生きさせてあげられないのだから。なんだか無責任な気がしてしまって…。

何が幸せなのかを決めるのは、本人でしかない。自身が幸せだと感じられることを実現させていくことも、本人でしかないのだと、そう思う。

人も動物も、すべての生きるものが自分が幸せであると感じることを本人の実現できる範囲で実現させるということだ。そう思う。

「そこにある幸せを感じられるかどうか」が大切だという。それも確かにそうで、実現できないことを追い求めていても幸せではないのかもしれない。

いや、違うな。実現できないことをひたすらに追い求めるという、そのこと自体が幸せかもしれないし、やっぱり本人次第だな。

何が幸せなのかは結局、本人にしか決められないということだ。

つまり、究極は、自分にしか、自分自身を幸せにすることができないとも言えるってことだ。

この記事を書いている人 - WRITER -
「Yes★喉神サマ⁈」の著者。 小学生と中学生の母親で義母のお世話もしている主婦。 社会福祉士の国家資格を持ち、福祉施設や行政機関で支援員・相談員の経験あり。結婚出産育児をきっかけに自分の心の闇と向き合うことになり、それがきっかけでヒプノセラピーやヒーリングなども学んだ。 県の男女共同参画アドバイザー養成塾を修了。
詳しいプロフィールはこちら

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© クリエイト マイ ライフ|土出麻美-公式サイト , 2022 All Rights Reserved.