本音で生きるということ
日曜日に少し大きな公園に行きました。公園にある池をよーく見ていると、小さなメダカの稚魚がたくさん水面を泳いでいました。チロチロと尻尾を動かして、なんだかふわふわと舞っているような姿で…
そんな姿をじーっと座り込んで見ていると、底の方でずっと動かなかったオタマジャクシが急にすごい速さで水面に来て、メダカの稚魚を食べるとすぐに底に戻っていきました。食物連鎖…かわいいメダカの稚魚もこうやって捕食されていくんだなぁって思いました。
それはさておき、本題の『本音で生きるということ』に話を移していきたいと思います。
日常の中でのこと
あなたは日常的に本音で生きているでしょうか?うちには小学生の子どもがいますので、小学生のお友達が家に遊びに来ることがあります。子どもが仲の良い子が来るわけですので、だいたい同じ子です。毎日来る子がいてね、毎日家に来ては一緒にお菓子を食べたりゲームをしたりするのです。
そこで気になることが。うちのお菓子を毎日食べて、お菓子のゴミはゴミ箱に捨てず散らかしたまま、数日連続して持ってきていたゲーム機の充電をうちでするのです。小さなことなのですが、続くとなんだか嫌な気分が…ほかのお友達で家からお菓子を持ってきてくれる子もいるのですが、もちろんその子が持ってきたお菓子も食べているのですよね。
ここで私の本音は、ハッキリ3つあります。一つ目は、その子のために買っているお菓子じゃない!ということ。二つ目は、ごみはゴミ箱に捨てて欲しい。(これは言っているのですが…)三つ目は、ゲーム機の充電がなかったら家で充電してきてほしい。ということです。
それでね、私は考えた結果その子のお母さんに「ほかの子もお菓子を持って来たりしてみんなで食べているからお菓子を持たせて」と連絡しました。たまにしか来ない子なら別に良いけど、毎日ってなるとね…と思って。
なんか、そういうのってケチな気もしたし、伝えるの少しイヤだなぁって気もしたけど、これが本音だと思ったから。ゴミを捨てることとかは、我が家で起きていることだから私が指導する。充電は、次うちでしていたらその時に、「家で充電してきてね」って伝える。充電器の取り合いになったりするしね。
これが、私の「本音で生きる」です。
あなたの本音は?
上記に書いたのは私の「本音で生きる」なのですが、あなたの場合はどうですか?言いにくいけど「お菓子持ってきて」と伝えることが「本音で生きる」ではないのですよ。同じ人もいるだろうし、そもそも私が「イヤだ」と感じたこと自体何も感じない人もいるはずです。家で遊ばれること自体がイヤだと感じる人もいるでしょう。ゴミを捨てることも自体も相手の子の親に話したい、という人もいるかもしれません。家でお菓子を食べること自体をなくす、という方法もありますよね。
誰かが言った意見ではなくて、あなたの本音です。あなたはどう感じますか?あなたは本音で選択していますか?
本音を邪魔するもの
本音で生きようと思ったときに邪魔をしてくるものがあります。それが、ほかの人の意見や評価。「こうしたら普通じゃないかな?」「こういったらほかの人になんて言われるかな?」とか言うやつです。
私の今回のお菓子の件だって、ちょっと思いましたよ。「お菓子持ってきてって言ったらケチって思われるかな」とか「お菓子持ってきてって言われるのイヤとか思われるかな」とか…そんなこと思っていてもきりがないのですよね。
「お菓子持たせてとか言われた!」って思われるかもしれないし、「人の家のお菓子食べてたのか!」ってそこで気づくのかもしれない。「みんなのお菓子食べてうちの子だけお菓子持って行ってなかったのか!」って気にするのかもしれないし、どう思うのかなんて、その人にしかわからないことなのですよ。そこは、相手の人の本音の部分だから。こちらの気持ちを伝えてどう考えるかは相手の人の自由なのです。
自分が逆の立場だったらどう思うかなって考えてみたときに、私の場合は、自分の子どもがよその子の家でそうしている方が気を使うからお菓子持たせたり、ごみはちゃんと捨てるように伝えたいなぁって思うから、きっと相手の人もそうだろう、と思いました。違う人もいるのかもしれないけど。
今の本音はそうだけど、もしかしたらいつか時が流れたらまた違う本音が出るかもしれない。それでも、私はその時の自分の本音で、自分がどうするかの判断をして選択していきたいと思うのです。
誰かの評価で本質は変わらない
自分が思ったことを実現させようと思ったときに気になってしまうほかの人の評価なのですが、本当は誰かの評価でその人の本質って変わらないのですよね。誰かが「すごい」といったらすごい人になるわけではないのです。たとえば、ガラス細工があったとして、それが誰かが「キレイ」と言って誰かが「変」と言ったとしても、そのガラス細工は色も形も変わりません。違う評価を受けただけ。
歴史で必ず出てくる『小林一茶』は、多くの句を残している人ですが、生前はそこまで評価されておらず、「田舎者」扱いだったそうです。今は誰にもまねできないような独特の世界観と言われていますが、最初はそんな扱いだった。「田舎者」と言われても「素晴らしい」と評価されるようになっても、その句自体は変わっていないのですよね。つまり、本質は変わっていないのです。
たとえば、「田舎者」扱いされてやめてしまっていたらその多くの句って残っていないのですよね。生前は評価されなかったけど、後から評価されるようになった人ってたくさんいます。でも、その人たちって評価されなくてもやめなかった。自分を貫いたのです。それが後々評価されるようになった。
評価されてもされなくてもその本質って言うのは変わらないのです。
評価に関係ない自分の選択を
誰かの評価を気にして、自分の本音を変えてしまうことや自分がしようと思っていることを変えてしまうことはよくあります。でも本当は誰かの評価は関係ないのです。自分がどう感じているか、という本音、つまり人の本質は評価がどうあれ変わらないのです。良い評価をされたら急に良い人になりますか?悪い評価をされたら急に悪い人になりますか?関係ないですよね。その時その評価をする人とってに都合が良かったか、都合が悪かったか、がその時の評価なだけです。
それではどうしたら良いのか、と言うとあなたが自分で決めるのです。それが良いのか悪いのか、これが好きなのか嫌いなのか、自分で決めて判断するのです。ほかの人の評価を気にして、自分を見失ってしまうよりも、自分の考えで、自分で判断した方が良いとは思いませんか?人の意見を全く聞かなければよい、ということじゃなくて、人の意見を聞いた上で、あなたは何を選ぶのかをあなた自身が決めるのです。
その時に良いと思って選んだことが、後になって違うことが良かったになることだってあるかもしれない。それでも良いじゃないですか。人は変わるものです。意見が変わることだってある。大切なのは自分が決めて自分で選択すること。「こうすると嫌われるかも」とか、「こうすればほめられるから」とかいう判断じゃなく、しっかりと自分を見つめて、本音はどうかを感じて…自分を押し殺すのではなく自分を受け入れて。
本音で生きるということ
本音で生きるということは、あなた自身が自分自身を受け入れる、ということでもあります。自身を受け入れていなかったり、悪い評価をしているとなかなか本音で生きられないものです。でも、本当はあなた自身の本音で判断していくことが、あなたが一番幸せに生きられる道でもあります。心の中で自分を責めていたりするのは他人の評価を気にしすぎているから。本当はあなたが思っているよりももっとあなたには価値があって、そのままのあなたで自信を持っていて良いはずなのです。
土出麻美(つちでまみ)