「喉神」という違った視点から自分をとらえなおすことで個性や特性(自分らしさ)を受け入れて望む生き方を創っていく。土出麻美のエッセイブログ

性格診断や分類、理論などは人を知るためのひとつのツール

 
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「Yes★喉神サマ⁈」の著者。 小学生と中学生の母親で義母のお世話もしている主婦。 社会福祉士の国家資格を持ち、福祉施設や行政機関で支援員・相談員の経験あり。結婚出産育児をきっかけに自分の心の闇と向き合うことになり、それがきっかけでヒプノセラピーやヒーリングなども学んだ。 県の男女共同参画アドバイザー養成塾を修了。
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世の中にはとてもたくさんの性格診断のためのテストや、占い、分析理論などがありますね。興味のあるなしにかかわらず、あなたもどれか一つぐらいはしてみたことがあるのではないでしょうか?簡単なものでは、「A型は真面目」などの血液型で言われたり、星座で言われたりします。「誕生日でその人の性格のほとんどがわかる」という人もいるようです。

 

それ以外にも、心理テストや能力テストなど、多くのものがあります。そして、心理的な理論もとてもたくさんありますね。「○○の法則」とか、「○○効果」とか起きた出来事に関して人がどういった反応をするといったことまで、たくさんの理論があります。それでは、これだけのことがすべてわかっていたら、簡単に人のことが理解できると思いますか?

 

では、あなたが座っている横に人が現れて、涙を流していたとします。その人の涙のわけは、これらの性格診断や理論でわかるでしょうか?わからないはずです。すべての分析を使ったとしても、目の前にいる、あたたかい血の流れた一人の人間の涙の理由はわかりません。その血の通った本人の言葉を聞かない限りは。分析や理論だけではその人の心はわかりません。なぜなら、それらは理解しるためのツールの1つに過ぎないからです。

 

ツールとは、道具や手段のことです。つまり、人を理解するためのひとつの手段として存在している、ということです。大切なのは人を見て、話を聞いて理解すること。その理解する時の手段の1つでしかないのです。

 

人間は「理論で説明できるモノ」なの?

この記事を書くきっかけになったのは、ある本を読んでいてとても共感する文章があったからです。

その本は『はじめての「超意識」覚醒』 著:鈴木啓介(徳間書店) という本なのですが、その47ページに『行動やマニュアル化して説明する傾向があります。そのため、多くのシチュエーションで人間は「血の通ったヒト」ではなくて「理論で説明できるモノ」として扱われます。』と書かれています。

それが、本当にそうだなぁと思ったのです。

分析や占いの種類によっては「就職面談の前に誕生日で分析を知ってどの人が良いかを選ぶことができる」なんてうたってあったりするのですよね。Facebookをしていても、「コミュニケーションに必要な○○効果」とか書いてあるのを見かけることもあって、コミュニケーションはもちろん必要だけど、その「○○効果」は前面に押し出す必要はあるのだろうか、と疑問に思うこともあったのです。

もちろん、そういったことを学習することが悪いとは思わないのですが、それだけになってしまった時に本当に目の前にいる人の心の痛みを理解することができるのかなぁと思うのです。

 

誕生日だけで人が理解できるのか

先ほどお話した、「誕生日の分析で人材を選ぶ」という話、そこまで極端なことを採用しているところがあるのかどうかは私は知りませんが、本当に誕生日だけでそこまで判断できるのでしょうか?誕生日でできる分析ってとてもたくさんあります。誕生日と生まれた時間を使って細かい分析が出るもので、私は「ホロスコープ」という星座を使った占いと「個性心理学」という動物占いの鑑定をしてもらったことがあります。

どちらも、「まぁ当たっているかな」と思う結果で面白かったですが、それで私のすべてがわかるかといえば、ほとんどわからないと思います。それだけですべてわかるのだったら同じ日の同じ病院で同じ時間に生まれた子どもは同じ性格になりますからね。

同じ日に生まれた双子でも、その子によって個性は違います。違う人間ですからね。

 

その動物占いの、子どもの個性を診断するものがあって、私の子どもたちもしてみたのですが、そちらはほとんど当たってなかったですね。自分のことだと書いてある内容から「そうかも」と思うことを探すのですが、自分の子どもだと客観的に見てしまっていたのか、「あまり当たっていないな」が本音でした。

子どもはそうやって分析するよりも、その子を見てあげたほうが良いなぁと思いました。子どもって見てるのに「見て、見て。」って言うでしょ?だから、何かの分析とか、本見るのじゃなくて、本人を見ていてあげてたら良いのじゃないかな?「甘えん坊だから受け止めてあげたほうが良い」とか、分析でじゃなく子ども見ていたら「この子は甘えん坊だ」とかわかるだろうし、それがわかったら受け止めて、「甘えさせてあげよう」ってなるのが良いのじゃないかな?と思いました。

もちろん、そういうのを見ることで安心できることもあるかもしれないです。客観的に書いてある文章を見て理解がしやすくなることだってあります。だから、そういうのが悪いわけじゃない、でも、ひとつのツールだってことは忘れずに使っていきたいですね

 

誕生日だけでは人は理解できない、あたり前ですよね。誕生日だけで本当に性格が決まってしまうなら人工的に生まれる日にちを操作するようなことだって可能になってしまいます。

誕生日知っただけで「こういう人でしょ」とか言われたら、「そのぐらいで私のことをわかった気にならないで欲しい」って思ってしまいます。ひとつのツールや、娯楽としてなら面白いし良いのですけどね。使い方を間違ってはいけません。それがすべてではないということ。

 

理論はコミュニケーションに重要なのか

心理学の分野で、「こういったことが起これば人はこう感じる」「こうなればこう反応する」というような理論は多くあります。どういった変化が起こるのか、どう感じるのか、学ぶことは良いことです。たくさんの理論がある、そういった知識や技術は学ぶのは良いのですが、それって本当にすべてですか?

マーケティングなんかでも、よく「心理学を少し学べば売れる」なんて書いてあったりしますが、大切なのはそういう技術だけじゃないですよね。たとえばすぐ目の前にいる人が本当に困っているのは何なのかはその人に触れないとわからないわけで、困っている人にとってはそんな技術ってどうでも良いことだと思うのです。今困っていることがあるのに、「この技術が…」とかそんなことでも良いのですよ。

 

理論でそうなっていたとしても、みんながみんなそのとおりに感じるとは限らない、人によって感じ方は違うわけです。だから、その理論を深めたり、そういった技術を磨こうとするのも良いけど、今、目の前にいる人に向き合うことの方が先だと思うのです。相手を見ること、しっかり向き合うこと、それが大切だと思うのですよ。

モノの感じ方って人によって違うもので、たとえば一つの文章を読んだとしても、人によってどう感じるかって違うのですよね。それはなぜかというと、その人のそれまでの背景、つまり、どう生きてきて、どう感じてきたかなどによってフォーカスするところが違うからです。どこにフォーカスするかによって全く同じ文章が違う意味にとることができるのです

 

そういった細かい感じ方まで考えると、同じ理論がすべての人に当てはまるわけはないですから、理論はひとつのそういったものがある、という捉え方でいないと、本当に目の前にいる人を理解するための妨げになってしまいます。その人を理解する前に決めつけてしまったり、偏った枠の中で見てしまうからです。

 

重要なのは心で人と向き合うことです。向き合うことというのは同情することとは違いますよ。同情じゃなく、ただその人と向き合って理解することです。

 

人の個性をそのまま受け入れるということ

多くの人がいて、すべての人は違っています。感じ方も、考え方も。違っていて当然のはずのその個性が、なぜか人と違うと受け入れられなかったりしますよね。そして、分類をつけて客観的に書いてあると急に、「○○だからこうなのか」と理解できて受け入れられたりすることって多いと思いませんか?

たとえば、一番最初の血液型の話だと「A型は几帳面」とかです。「あの人、几帳面だと思ってたらやっぱりA型か~」なんて言ったりしますよね。「A型だから几帳面だけどしょうがない」なんて受け止め方をしたりすることって日常でありませんか?これが血液型だけでなくほかの場面でもあります。

これっておかしいと思いませんか?たとえば、几帳面な人がA型あろうとO型であろうと関係なく、ただそのままを受け入れられるように、人の個性を分類せずに、そのまま、ありのままを受け入れられるような社会が良い、と思うのです。

 

 

人を分類することって必要なの?

そもそも、人を分類する必要ってあるのでしょうか?

これを感じたのは「前者」「後者」という話を見ていろいろなコメントを読んでいてそう感じるようになりました。この「前者」「後者」というのは国語辞典で言うような、「前のたとえ」「後のたとえ」というような意味ではなくて、心屋仁之助さんがブログの中でたとえて言われた「前者」「後者」です

もともとこれは、こういった特性の人もみんな認め合って、一緒に暮らしていけたら良いって意味でブログに書かれていたのですが、これがなんだかいろんな風に広まって、「あの人は後者だからこうなのか」みたいな意見が見られるようになっていたのですね。それって、「後者だから」と言って理解するのではなくて、「後者」であっても「後者」でなくても、ただ、こういう人って理解されないのかなって思ったんです。その分類がなくてもその人の個性はその人の個性で、ただ、そのままを理解しあえれば良いのに。そうすれば、分類なんてしなくても良いのではないのかな?

 

ちなみに、筆者は子どものころからよく怒られて、ビビりながら育ってきた後者です。だから人からはよく「変わっている」と言われるのだと思うのですが。うちの上の子は後者で下の子はおそらく前者(まだ子どもですが)です。上の子は当然、私と良く似ているので怒られやすく、保育園の年中さんの時に「保育園でいつも怒られるねん。」と話したので、保育園側に話した結果、知能検査を受けさせたことがあります。

もちろん、知能に問題はありません。ただ、得意なこととそうでないことの差が激しいだけです。激しすぎるだけ。ADD(注意欠陥)じゃないけど、それに似た気が散りやすい感じですが、そういった判定は出ないぐらいのレベルです。そんなことはわかりきっていたのですが、それを伝えただけだと対応してもらえないのですよね。だから結果、怒られるようになってしまうのです。

なので、理解してもらって本来なら怒られる必要のない場面で怒られることが少しでも減るように知能検査を受けさせました。もちろん結果は知能には問題なく、ただ、よくできるところと難しいところの差が激しいだけ。差が激しいってものすごく激しいんですけどね。いろんな面の検査をして得点を出すのですが、その中でここからが問題のないラインとなる点数があって、点数が高いと知能レベルが高くなります。

ラインの上は等しく、「問題のない知能」となるわけですが、その中の一番得点が高いものと低いものの差がめちゃくちゃあるんです。わかりやすいたとえで言うと、のび太君と出木杉君が一人の中にいるような感じです。

 

だれでも、得意不得意はあるのですが、たいていの場合がそこまで差が離れていなくて、点数の高い低いに関係なく、差が離れていない方が本人は暮らしやすいのだそうです。全部がのび太君だったら気がつかない、見えない部分が、出木杉君の部分で見えるからショックを受けやすいそうです。

だから、その分析結果があれば、配慮が必要だ、ということになって怒られることが格段に減るのです。そして、本人の個性に合うように配慮してもらうことができるので、暮らしやすくなるというわけです。得意な面と不得意な面があるのを、分析結果があったら配慮してもらえるのを、なかったら怒られるのですよ。

そうではなくて、その子の個性を分析とか分類なしにみんなが認められて配慮されるのであれば、全員の子どもが暮らしやすく、個性を伸ばすようにしてもらえるだろうに、です。そして、本来あるはずの自己価値観を、怒られて下げることなく大人になることができるだろうに。すべての場面で、そういった分析や分類がなくても人の個性を認め合える社会であれば、もっと多くの人が幸せに生きられると思うのです。

 

個性を認め合える、分けない世界

個性を認め合える世界になればもっと多くの人が豊かな気持ちで暮らせると思うのです。「あの人何?」みたいな批判的な捉え方や、分けて捉えるのではなく、すべてにおいて「こういう人なんだ」と受け止められるような社会です。

例えば、筆者であれば左耳が聞こえませんのでその辺で話しかけられた時に聞こえにくいことが多くあります。それで何度も聞き返すと、イラッとする人がよくいます。ですので、「耳が悪いから」と伝えると急に申し訳なさそうになったりします。そういうのがすべてない状態が良い、と思うのですよ。

何度も聞き返しても、「ただ何回も聞き返す人」として受け止める。聞き返すって聞こえてないだけですから、聞こえるように伝えれば良いだけなのですよね。そして、「耳悪い」って聞いたとしても、「申し訳ない」と感じるのではなくて、ただ「耳が悪いだけの人」と捉えて、どうすれば聞こえやすいかがわかれば良いだけ。

車いすに乗っている人も、ただ車いすに乗っている人なだけ。なんなら、自転車みたいに、移動手段として趣味で車いすに乗るがいても普通に受け入れられるぐらい、受け入れられて、特別扱いしないんです。特別扱いしなくても、助けが必要なら助ければ良いだけ。分けなくて良いのですよ。

「ハンディのある人が描いた絵だから素晴らしい」とかじゃなくて、「素晴らしい絵」とハンディのあるなしは別。それでもお互いに必要な時は助け合う。認め合う。

大声出している人がいたら、ビックリするけど、ただ大きい声出している人という感じで受け止めて、ちょっと大きい子でもベビーカーにのっている子がいてもただ、ベビーカーにのっているだけの子、として特別視することなく、ただ、そうなんだなぁって感じで受け入れるのです。そうなったら、地震が起きても知的障害者の人が大きい声を出してしまうから避難所に行けない、とかなくなるし、こだわりの強い子どもが大きくなってもベビーカーにのりたがっても、お母さんが肩身の狭い思いもしなくて済む、と思いませんか?

すべての人が自分の個性を認められていて、安心して暮らせていたなら、心が広くいれるだろうからもっとほかの人を認められると思うのですよ。分ける必要ないのです。「障害者」という字がこの漢字がおかしい、とかいろいろ言われている件も、分けようとするからそういう意見が出てくるのだと思うのですよね。お年寄りの「要介護」みたいに、「要介助」とかいうような表現で助けが必要な基準があるだけで分けられていなかったら、そんな風になっていないんじゃないのかなって思います。

 

受け入れるために理解すること

ただ、どんなに受け入れるためにも理解は必要です。「そのまま受け入れる」と言ってもやはり理解しにくかったり、良く分からなかったりすることがあります。文章化されたものを見ることで客観的に理解できることがあるし、わかったつもりでいても、実はただわかったつもりだったということだってあります。だから、深く理解するためのツールとして、性格分析やテスト、理論などがあるのですよね。

理解が深まることと、理解を深めるためだけでなくても娯楽としても楽しめて、そこからコミュニケーションが取れてより深く理解できたりすることだってあります。性格分析やテスト、占いも理論もお互いの理解や信頼関係を深めるための手段のひとつとして、または自分を知る手掛かりとして、「信じるか信じないか」や「当たっているか当たっていないか」にかかわらず、参考にしてみたりすることもできますし、会話のネタにすることもできますし、人と一緒に楽しむこともできます。

大切なことはどこに重点を置いているか、それらをどう使うか、というところです。妄信してしまったり、人を分けるために使ってしまうのではなく、うまく活用して楽しんでいきたいですね。

 

 

土出麻美

 

 

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