「かまってちゃん」は悪か?愛の存在とも考えられるんじゃない?
この記事の目次
たまに聞く、「かまってちゃん」と言われる存在。かまってちゃんって悪者なのか?ってふと思った。
先日、たまたまSNSで流れてきたブログ記事を何気なく見たんです。
そこに、ルックスの良い「かまってちゃん」に騙されて、かまってしまったみたいなことが書かれていたんですね。
それを読んで感じた私の感想は、「いや、別にその人は騙してないし、ルックスが良かったからって相手をすることを選んだのはこの書いた人やろうよ。」でした。
ちょっと笑ってもた。
人それぞれ好みはあるんやろうけど、ルックスの良い人は他の人が自分で選んだことまで「キレイやから」とかってその人のせいにされて大変やなぁって思ったんですよね。
そこで考えたんですが、「かまってちゃんは迷惑な存在」と言うようなことはよく言われていたりするけれど、「かまってちゃん」ってそもそも悪者なのか?って考えてみたんです。
だから、今回は、かまってちゃんってそもそも悪者なのか?って話の記事です。
かまってちゃんって?
かまってちゃんってたまに聞きますよね。
かまってちゃんってどういう意味?
goo辞書によると
俗に、他人にほめられたい、親切にされたいなどの気持ちが強く、周囲の人の気を引くような言動を繰り返す人。
とありました。
そうそう、かまってほしい人ね。だからかまってちゃん。
でもこれってある意味誰でも当てはまることなんですよね。
人って承認欲求がありますから、当然、誰しもが他人に褒められたいし、親切にされたい。
だれでも、そうされたらうれしい。
嬉しくない人もいるかもしれないけど、私だったら、やっぱりうれしいな。
褒められたらうれしくなるし、親切にされるのもうれしい。
その人のことが好きになると思う。
かまってちゃんって悪者?
人に褒められたいし、親切にされたいと思うこと。これだけでは別に悪くないですよね。
じゃ、かまってちゃんの何が悪いって言われるんだろう?
よく悪いように言われるのは、その気持ちが強すぎて周囲の人が迷惑だなぁって感じたりするような行動をしてしまう場合ですね。
たとえば、「聞いてくれないと自殺するから!!」とか言い出したら困る。
でも、私個人的には、そういうことを冗談ではなく本気で言うようなら、「かまってちゃん」って言う領域ではなく専門家の対応が必要な状態だと思うんですよね。
だから、普通に考えたら、かまってちゃんって言うのは別に悪者でもなく、別に人をだましているわけでもなく、ただ、自分の「かまってほしい」に忠実に生きているだけの人、なんじゃないのかなぁって思うんですよ。
私はね。そう思う。
でも、やたらと「かまってちゃんは悪い」みたいな認識が結構広くあるように感じるので、それってなんでかなって考えてみた。
「かまってちゃんは悪い」認識の裏にあるもの
かまってちゃんって「迷惑な存在」とか悪者扱いされる原因って何かなって考えてみたときに、大きく二つの要因が考えつくんです。
その二つの原因のどちらか…もしくは両方が、受け手にあるから「迷惑」ってなって悪者になるのかなってね。
その原因とは、一つ目は「受け手自身も本当はそういった願望があるけれど、ダメだと思って我慢している」パターン。
そして、もう一つは、本当はかまってちゃんがかまってほしそうでも、自分が無理ならば断われば良いだけなのに、「受け手が断ることに罪悪感を感じてしまう」パターン。
つまり、受け手側に心の状態に大きな原因が隠されているのかなぁと、思うんですね。
本当は自分もそうしたいけど我慢しているから、相手が悪く見えるパターン
本当は自分もかまってほしいって言う願望を持っているけど、迷惑かかるから我慢しているのに、他の人が堂々とかまってほしそうにしているのを見ると、イライラする人は多いんじゃないかなぁと思います。
だって、自分が「それは悪いことだ」と思って、本当はしたいのに我慢していることなのに、それを平気でやっている人がいるんですもん。
きっとすごく不愉快な気持ちでしょうね。
自分が悪いって思っていることされたらすごく嫌な気分になるもんね。
本当は甘えたかった
このパターンは、幼少期にたくさん甘えたかったけれど、甘えられなくて我慢していた人に多いんじゃないのかなって思います。
最近あまり言われなくなったけれど、「あまり抱っこをしたら抱き癖がつくからダメ」って言われていたり、「子どもを甘やかしたらダメ」って言われて厳しく育てられていたリすることってありますよね。
本当はもっと甘えたかった。
もっとかまってほしかった。
もっと優しくしてほしかった。
でも、甘えたら怒られた。
そういった経験から、本当はもっと甘えたりかまってもらったりしたいって言う願望を満たされないまま持ち続けているけれど、それは悪いことだからできない。
そういう、「私だってしたいのに!!」っていう本当の心の奥の叫びが反応しちゃうんですよね。
そのイライラを抜け出す
このパターンの人は、「かまってちゃんは悪い」から抜け出して、自分と向き合ったほうが良いんじゃないかなって思います。
「私は、本当は甘えたりかまってもらったりしたいけど、それは悪いことだって思っているんだな」って、自分で気がついた方が良いです。
そして、「甘えたりかまってもらったりしたいけど、それが悪いと思っているからできない私」を認めて抱きしめてあげたら良い。
そうしたら急に、甘えたりできるようになるかもしれないし、甘えたりはしないけれど、それが悪いとも思わなくてよくなるかもしれない。
今の自分が何を原因に「それが悪い」と感じて不愉快になっているのかを知って、それが原因で不愉快になる自分を受け入れて認めていると、なんだかそれが和らいで、気にならなくなっていくはず。
良いやん!!!良いよ!!!
甘えたって良い!!
いっぱい甘えたら良い!!!
でも、甘えたくないって思うなら、甘えなくても良い。
…私は、その時の気分によったら甘えたいし、気分によったらめんどくさく感じて放っておいてほしいってタイプです。
うん。私は気分屋な私を抱きしめようかな。
断ったり受け流したりすることに罪悪感を感じてしまうパターン
かまってちゃんが迷惑だって感じる原因のもう一つはこれ。
断ることに罪悪感を感じてしまうパターン。
本来、平気で断ることができたり、流したりすることができるのであれば、おそらく、さほど迷惑ではないんですよ。
適度な距離を置くことができるのであれば、問題ないんです。
断ったり受け流すことができなくて相手をしてしまって自分の時間が確保できなくなってしまったり、断ったりはするけど、断ることに罪悪感を感じていると、しんどく感じるんですね。
「もう!!迷惑!!!!!」ってなるんです。
いや、だって、自分の時間
確保できなかったり、自分のペース乱されたりするし、断ったら罪悪感感じて自分を責めないといけなくなるしね。
断っても良い。罪悪感を感じなくて良い。でも、その優しさで相手しても良い。
このタイプの人は、優しいんですよね、きっと。
だから、断れなかったり、断ることに罪悪感を感じたりする。
優しいから、断ると悪い気がするかもしれないけれど、あなたが今、別にやりたいことがあるとか、本当はしたくないって思うなら、断って良いんですよ。罪悪感なんて感じる必要はない。
でも、やってあげたいって思うのなら、やってあげたら良いと思うんですよ。
もしも…。
「かまってちゃんの相手なんかして、馬鹿だ。」っていう人が、もしもいたなら。
そういう人はそういう価値観の世界で生きているだけであって、あなたがそう思わないのならそれで良いと思うんです。
大事なのは自分が選んだ行動だってこと
無理だからって断っても良いし、手伝ったり助けてあげたりするのも良いんです。
でもね、忘れてはいけないことがあるんです。
それは、その行動をあなた自身が選んだってこと。
これが大切なんです。
言われたからしたんじゃなくて、あなたが選んでしたって言うことを忘れてはいけない。
たとえば、かまってちゃんが言ってきたからって、絶対にしないといけないわけじゃなくて、断っても良いんですよね。
でも、断らない方を選んだのなら、あなた自身が、「私がすることを選んでしている」って自覚しておく必要があるんです。
逆を言えば、断るにしても、「私が断ることを選んだんだ」って自覚していること。
それが大切なことなんですよ。
相手のせいでこうなっているんじゃなくて、「自分で選んだ結果、こうなっている」と言う自覚を持っていること。
それだけで感じ方がずいぶん変わります。
「迷惑な状況になっているのは、自分がこうする選択をしたからだ。」
そう思っていたら、たとえ相手がかまってちゃんだろうと関係なく、相手は悪者になりません。
「道歩いてたら、全く知らない他人が、全く関係ないのに急に殴ってきた。」とかは、明らかに相手が悪者になると思いますけどね。
そんなことって、人生の中で、そう起こらないことです。
起こったらめっちゃ怖いですけどね。頭の中真っ白になりそう…。
かまってちゃんが愛の存在だって考えられるんじゃないか?
さて、ここで、タイトルにも書いているんですが、かまってちゃんが愛の存在って考えられるんじゃないのかなって話をしてみたいと思います。
考え方の話しなんですけどね。
私はスピリチュアルな話も好きで、シルバーバーチの霊訓とか読んだことがあるんですね。
その中で言われることの一つに「人のためになることをしなさい」っていうようなことがあるんですね。
人は生まれて人のためになることをすることで魂が成長するって言う話。
その話から考えて、ちょっとどこまでがシルバーバーチの言ったことでどこから自分が考えたことだかわからなくなっているので、私の仮説としてとらえてください。
ひとつ、人のためになることをすれば、ひとつ、世の中に愛が生まれる
人のためになることをすれば、「愛」と言うかたちの現実世界に平和的な感覚をもたらすエネルギーが生まれるんですね。
ひとつ、人のためになることをすれば、ひとつ、現実世界に愛のエネルギーが生まれる。
人のためになることがたくさん行われれば、愛のエネルギーはたくさん生まれて、現実世界が平和的なエネルギーで満たされていくんですよ。
たくさんそれは満たされれば満たされるほどに、世界は平和で幸せになるエネルギーです。
人のためになることをする裏には、助けてほしい人がいる。
人のためになることをするって言うのは、誰かを助けたり、誰かに力を貸すことでもありますよね。
それって、助けてほしい人だったり、力を貸してほしい人の存在があって成り立つことなんです。
すべての人が完璧で、すべての人が誰の助けもいらず、困ったことも特にないような生活を送っていたのなら、人のためになるようなことをするのってものすごく難しい。
でも、現実はそんなことなくって、人はそれぞれに得意なこと、苦手なことがあり、できないことがあって困っている。
だから助けることができる。
不完全な部分こそが愛を生み出す
完璧でないからこそ「人のためになること」ができて、愛のエネルギーを生み出すことができるんですね。
人は不完全な存在で、弱点があるからこそ、人とのかかわりの中で世界に愛のエネルギーを生み出すことができるんです。
つまりは、不完全な部分こそが愛を生み出すことができる可能性を秘めた部分なんですよ。
そこがないと始まらない。
世界の平和は、人の不完全な部分があるから守られているんです。
逆だと思われそうだけど。
不完全な部分を助けることで愛を生み出しているから。
未成熟な人である子どもは愛の存在
人として未成熟な存在で、人の助けが必要である赤ちゃんや子どもは、まさに愛の存在です。
絶対にフォローがいる。
大人の力が必要です。
でも、そうやって手はかかっているかもしれないけれど、それは多くの愛のエネルギーを生み出すことにつながっている、と考えられると思うんですね。
当たり前のことをしているようで、それは現実世界に愛のエネルギーを与える。
親子だけじゃなくて、他人でも、関係なく、人のためになることは愛を生み出すんですから、子どもの存在はまさに、愛の存在だと思うんです。
かまってちゃんは愛の存在か
それでは、かまってちゃんは愛の存在なのか、という話ですね。
これはね、どうとらえるか、という心次第だと思いますね。
たとえ誰が「あんな人を相手して!!」って言ったとしても、「かまってほしい」って言う願望を持った人を甘やかすのも、愛が生まれるんじゃないかなって思います。
誰かが犠牲になるとかじゃなくて、「やってあげたい!!」って思ってやってあげるなら。
でも、適度に距離をとって過ごすのも良いとおもう。
あとは、かまってちゃんが自信が持つ、「かまってほしい」って思いを越えて、そう思わずに生活していけるようにできることも愛を生み出すことになると思うんですね。
だけど、「悪者だ!!」「あいつは悪いから相手したらダメだ!!」って一方的に決めることは何の愛も生まれないと思う。
だからダメだって批判するつもりはないけれど。
結局、「誰が悪者」じゃなくて、大事なのは自分が何を選択するかだ。
結局ね、今回は「かまってちゃん」をもとに話をしてきたんですけど、ようは「誰かが悪い!」とかじゃなくて、「自分が何を選択するか」が一番大切なんですよね。
自分でそうするかをしっかり選択していたなら、「あの人はかまってちゃんだ」とか、関係ないし、気にもならないと思うんですよ。
「自分がこうしようと思ったからこうしているんだ」と言う意識がしっかりしていたなら、「あのかまってちゃんのせいで…」とか絶対に思わないはずですから。
だって、かまってちゃんであろうとなかろうと、自分がしようと思ってしたことなんだもん。
「○○のせいで…」って思っているってことは、自分でしたことを「自分でこうすることを選んだ」って言う意識をしっかり持ててないってことなんじゃないのかな?
別にそれが悪いとも思わないけどね。
でも、「自分が選んだことだ」ってしっかり認識して、自分の行動に責任を持っていられる方がイライラすることは少なくなるんじゃないかなぁと思う。
すべてはあなた次第だ。
と言うお話でした。
それでは、また~!!
土出麻美(つちでまみ)