今を素直に喜べない!?無理して喜ぼうとするより大切なこと
「今を素直に喜ぶことができない」
そんなお悩みをブログ読者の方からいただきました。
私としては、本人が「喜べない」と感じているときに無理して喜ぶ必要はないと考えています。
本当はよろこべないことを無理して喜ぼうとするのではなく、今、この瞬間の自分自身の気持ちに正直になって、喜ぶことができない理由に気が付いて、その理由と気持ちを抱えている自分自身に寄り添うことができる方がずっと大切だと思うのです。
今喜べない自分を偽って喜ぶのではなく、喜べない今の自分の心に寄り添うことの方が大切。
無理して喜んだって、それは表面的なものであるから、本当の自分自身の望んでいることにより双方が、本当の意味でよろこぶことができるようになると考えるからです。
今回は、お悩みメールをいただいた読者さんの了解をいただいたので、お悩みの紹介と、私の考える対処方法について紹介をしていきたいと思います。
この記事の目次
「今という瞬間を素直に喜びたいのに、喜ぶことができない」という悩みとの向き合い方について
今を喜べないというお悩みのメールをいただいたのは先日のことです。
「今」という瞬間を喜びたいのに、喜ぶことができない…。
喜びたいのに喜べないって悲しいことかもしれません。
だって喜びたいと思っているのに喜べないなんて、つらいだろうなって思うんです。でも同時に、喜べないのに喜ばなくて良いんじゃないかなって思います。
喜べないのはよろこべない理由があって、その理由が心に引っかかっているから喜べないんだから、本当は、その理由の方が自分にとっては大きなことなんじゃないかなって、そう感じるからです。
それなら、無理して喜ぼうとするのではなく、「今、喜べない自分」の心のつっかえとか、心の傷に寄り添ってあげた方が、良いんじゃないかな?
例えばどんなに走るのが好きで、早く走れる人だって、足が骨折していたら走ることができないのと同じこと。
今、無理して走ったら、もっと走れなくなる…。だから今は走らない。走らないことを選ぶ。
それと同じで、今喜びたくても喜べないのなら、無理して喜ぼうとはせずに、「今は喜ばない」を選ぶ。今、自分の心に必要なことをする。それでどうでしょう?
自分が未来や過去の犠牲者のように感じてしまうというお悩みメール
読者さんから最初に届いたお悩みメールは、「自分が犠牲者になってしまう」といった内容でした。
土出さんお久しぶりです。
読者さんからのメールより一部抜粋
最近つくづく思うのですが、僕たちは下手をすると、未来や過去の犠牲者になってしまいますね。最近、実感して思うようになりました。
このメールを読ませてもらって、「犠牲者になってしまう」って、なんでそう思うのかな?って思ったので、メール返信をして聞いてみました。
メールをいただきましてありがとうございます。
私の返信より抜粋
未来や過去の犠牲者になってしまうとのこと、なぜそのように思われるようになったのですか?
というのが、私自身はあまりそのようには思わないのです。
私がそのように思っていない理由は、自分自身がどのように生きるかは「自分が決める」と考えて自分で選んでいくことをすれば自分自身で決められると思っているからです。
とはいえ、私が考えていることが正解というわけではなく、何を正解と考えるかも個々人それぞれが自分で選んで決めることができると思っています。
今回、〇〇さんが「未来や過去の犠牲者となってしまう」と思われるようになったことの中に、何か答えがあるのかもしれませんよ。
答えがあるかどうかを決めるのも、〇〇さんが選ぶことができます。
私からの返信が長い!!(基本的に長文なんです。いつも)
ということはさておき、「自分がどうあるかは自分で決められる」と思っているので、なんで犠牲者って思うのかなってところにそう思ってしまうことの答えがあるんじゃないかな?ってことを伝えたくて返信しました。
返信が長すぎて逆に伝わりにくかったかな…とか、今、読み返してみると思いますね。
伝えるって難しいな…。
今という瞬間を喜ぶことができない
私が「なんでそう思ったのかなぁ…」というメールを返信してから、読者さんからさらにその返信が届きました。
その理由が、「今を素直によろこぶことができない」といった内容でした。
内容を強引に説明すると、「今」という瞬間にピュアによろこびたいのに、僕はどうしても過去のつらかったことを思いだし、「今」という瞬間を最大限にピュアによろこべないことがあります。
読者さんからのメールより一部抜粋
また、未来のことを深刻に思い悩んで、「今」という瞬間を最大限にピュアによろこべないことがあります。
過去のつらかったことを思い出したり、未来のことを不安に思ったりしてしまうことで、今を喜ぶことができない、ということでした。
人間ならだれでも雑念を持っているけれど、「今」という瞬間をピュアに喜びたいと思ったのにそれができないから犠牲者だと表現されたとのこと。
このメールを読ませてもらったときに私が一番に思ったことは、過去のつらかったこととかを思い出して今を喜べないんだったら、無理して喜ぼうとしなくても良いんじゃないかな?ってことでした。
素直なありのままの自分が「喜べない!!」って感じているのであれば、そんな自分自身を受け入れ認めてあげて、寄り添っても良いんじゃないかな?
人って、良いことを考えている方が良いような気がしてしまうかもしれないけど、悲しい気分の自分だって、嬉しい気分の自分だって、どんな気持ちであってもそれが全部自分自身だから、どんな自分もそのままで受け止めて良いと思っています。
「ポジティブ」とか「前向き」ってそういうことなんだと思うんです。自分の気持ちに積極的に肯定的に…。
一般的にはどんなことでも良いようにとらえることができることが「ポジティブ」だと思われているかもしれません。でも、そうではなく、自分がどのように感じるかをそのままに受け入れることの方が健康的でポジティブだと私は感じています。
社会の価値観にあわせるんじゃなく、自分の気持ちに寄り添うんです。
自分の気持ちに寄り添うことは誰の迷惑にもならないです。
自分の気持ちに寄り添うって、「モヤモヤするから人のものを壊す」とか、そういうことじゃないですよ。それは人の迷惑になることですよね。
何かに当たり散らすとか、そういうことではなく、自分の気持ちに正直に向き合う。で、なんでその気持ちが生まれてきているのかについて自分で気が付いて、そんな自分をいったん受け止めてみる。
他者に対して明らかな迷惑行為をするのは良くないことだけど、とことん自分の気持ちに正直に向き合っていくのが良いと思うんです。
そうすることが、自然と本当によろこべる日が来ることにつながっていくんだと思ってます。私は、です。もっと自分に正直に、もっと自分のことを大切にして良い。
「喜ばないといけない」という強迫観念を持ってしまっていないか
「今をよろこぶことができない」という悩みが出てきた理由について考えてみました。
「よろこびたいけど喜べない…。」
そもそもなんで喜びたいんでしょう?
喜びって感情です。感情ってのは通常は勝手にあふれ出してくるものです。嬉しかったら嬉しいと感じる。喜びは喜ばしいときに勝手に湧き上がってきます。
喜びたいのに喜べないってのは、今現在、喜びの感情が湧き上がってきていない状態ってことです。つまり、感情は喜んでないんです。じゃあ、喜びたいっていう気持ちはどこから来ているのか、というと「頭」です。心ではなく、頭。感情ではなく、思考。
頭は喜びたいのに心は喜んでないってことですよね。
それでは、なんで頭は喜びたいんでしょう?
心が喜んでない時に頭が喜びたいって思うのはなんででしょうか?
おそらくですが、その答えは、「頭が喜ばないといけないと判断している」ってことなんじゃないかな?と思うのですが、いかがでしょう?
喜ばないといけないと思ってるのに、喜べない。心が喜んでないから。
なんで?
なんで頭は喜ばないといけないと判断したんでしょうか?
「喜ばないと…」という強迫観念がなかったら、心のままに、嬉しいときは嬉しいって思えるし、悲しいときは悲しいって思えるんですよね。
よろこぶことは良いことで「喜ぶべきだ」という意識が広く浸透している
なんで喜ばないといけないという強迫観念みたいなものを持ってしまうのかな?と考えてみました。
物事について深く考えたりすることが好き…というか、もう、脳みそが勝手に考えてしまうようにできているんですよね。私自身が。なので、なんで喜ばないといけないって感じてしまうようになっているんだろうって考えざるを得なかったんです。
考えてみて出てきた答えは、喜ぶことは良いことだという認識が一般的に広がっていること。その理由の一つに、自己啓発の考え方や、引き寄せの法則なんかでも「喜びましょう」って言われているからなんじゃないかなと…。
《一般的に聞いたことのある考え方》
「今をよろこべないとこれからも喜ぶことは難しい」
「幸せは自分で感じるものだから、今幸せを感じることができないのであれば、幸せを感じることは難しい」
こういう考え方、聞いたことがあるんじゃないでしょうか?
これが予想以上に広く浸透して心の中に強く残っていて、「そうじゃないとダメだ」って思ってしまって自分のことを責めてしまっているんじゃないでしょうか?
この考え方自体は悪くはないし、否定をする気も全くないです。実際に今喜べた方が良いだろうとは思います。
とはいえ、誰だっていやな気分になってしまうことも、しばらく笑えないことだってあると思うんですよ。
だって人間だもの。
なんだか落ち込んでしまって少しの良いことがあっても笑えないことだってある。でも、それが必ずしもいけないことではなく、その時にしっかり落ち込んだ自分に寄り添うことがプラスに働くことだってある。
その時よろこべないことが、すなわちずっと良い方向に向くことができないというわけではない。
そう考えています。
だから、その時その時の自分の気持ちに正直になって良い。そうしないで自分の気持ちにウソをついていたら本当になかなか心から笑えないようになっていくんじゃないかなって思います。
でも、喜べないけど喜ぼうと頑張ることも、悪いことではないとも思ってます。実際に、別に楽しい気持ちじゃない時でも、笑顔を作ってみたら心も上向きになっていくことだってあるんですし。どうすることを選んでも、それが間違いにはならない。
湧き上がってくる自分の感情をそのまま受け止められるような生き方
もしも喜ぼうとして頑張ってみても、心が上向きになれなくて自分の気持ちがイヤになってしまうんだったら、自分の気持ちに寄り添っても良いと思ってます。
「喜びたい気持ちがあるけれど、どうしても暗い気持ちになってしまうな…」っていう自分自身の気持ちに、「これじゃダメだ」って思うんじゃなくて、「これでも良いよ」って優しく包み込んでいたらどうかな?
それで、本当にうれしいと感じたとき、喜ぶことができたときには、たとえ一瞬だったとしても「喜べたな」って思ってそのことを受け入れて大切にしていれば良いんじゃないかなって思います。
そうしていくことで自然と喜べる時間が増えていけたら良いですよね。
人は、落ち込んだり楽しめていたり、いろんな面を持っているからおもしろいし美しいんだと思ってます。
強さも弱さも、うまくいくときもうまくいかない時も、笑う時も泣く時も笑う時も、いろいろあるから、それが良い。すべてが愛しく思えるような生き方ができたら良いなぁと、個人的にはそう思っています。
どんな自分の感情も、どんな自分自身であるときも、そのままの生き方が愛しいと思えるとき、無理してよろこぼうとするような苦しさから解放されて、本当の意味でよろこぶことができる生き方ができるのではないでしょうか。
それでは。
土出麻美でした。