デニ・ムクウェゲ医師のドキュメンタリー映画に日本の女性差別を見た話
2018年ノーベル平和賞を受賞したデニ・ムクウェゲ医師のドキュメンタリー映画を見ました。
これは私が受講している「男女共同参画アドバイザー養成塾」でおススメされていたもので、兵庫県立男女共同参画センターイーブンでDVDを借りることができます。
コンゴの産婦人科医。
コンゴ戦争下で性的暴力の被害にあった女性を治療し、社会生活ができるようにケアをしている。
2018年ノーベル平和賞受賞。それまでにもノーベル平和賞にノミネートされていた。
ムクウェゲ医師の活動の様子を伝えるドキュメンタリー映画「女を修理する男」がある。
この映画を見て、率直に感じたことは、女性が受けている性被害の状況が私が予想していたよりもずっとひどく、むごい状況だったこと。
それともう一つ、衝撃を受けたことが、この中で描かれている悲惨な状況の中に、意外にも日本と変わらない…というか、「これは日本でもあるよね。」と思う内容があったこと。
こういう部分が日本はジェンダー指数が低く、途上国レベルである部分なのだろうと感じたのでした。
障がい者や高齢者は言うまでもなく、女性も子どもも、一般的な男性と比べて力も弱く立場が弱くなりやすい存在で、だからこそ、適切な法整備や認識を広めあうことが大切なのであろうと思ったのでした。
今回の記事は、デニ・ムクウェゲ医師のドキュメンタリー映画を見て、性被害の酷さに驚いたことや女性の強さに感動したこと、日本の現状と重なった部分などについてを紹介していきます。
ノーベル平和賞受賞者 デニ・ムクウェゲ医師のドキュメンタリー映画を見て感じたこと
デニ・ムクウェゲ医師のドキュメンタリーを見る前に、講義で戦争下で性的暴行を受けた女性ん男治療をしているということは聞いていたので、どんな内容かわかっているつもりだった。
だけど、それを見たら私のイメージをはるかに超えていたんです。
私がイメージできる世界なんて、ものすごく、平和なものなんだと、そう、実感したのでした。
戦争下で性的暴行があることは、机上論としては知っていたし、過去に見た、ジャンヌダルクの映画でもそういったことは描かれていたし。
だけど、そんな予想を現実の性的暴行ははるかに超えていて、残虐極まりなく恐ろしい、人間の仕業とは思えないものだったんです。
戦争とは、人を悪魔に変えてしまうようなものなのだろうと、そうも思いました。
性的な暴行は犯人が性的な衝動を発散させるためを超えていると、そう思ったんです。だって性的な暴行を加えた後に、性器にナイフを刺したり、木の枝を刺したり、銃で打ったりするんですよ。
何のために?
性的な衝動を発散させるためであれば、そこまでする必要がないじゃないかって。それでもそんな理屈じゃない、どこか精神的におかしくなってしまっているのだろう。そう思ったのです。
戦争下で性的な暴行を受けた女性はそれだけでも心も体もボロボロになっているのに、さらに性器をナイフで刺されたりすることで内臓がぐちゃぐちゃになってしまっているのを、ムクウェゲ医師が手術で治療して、心のケアもして、さらに自分で働いて生活ができるような状態になるまで支援しているのです。
最初、「女を修理するってどんな表現やねん」って思ったり、手術ってどんなの?そんなに大げさな話なのかな?ぐらいの感覚でいた私は本当に何もわかっていない人間だと思いました。
現状は命に係わるぐらいひどく傷つけられ、ボロボロにされていた。
生後1年にも満たないような赤ちゃんまでもがそう言った性的な暴行を受け、内部を突き破って腹部まで損傷を受けたり、腹部の奥まで便が押し込められて、助けることができない…そんなシーンがあって、とても苦しい、ひどい世界だった。
ドキュメンタリーの内容の中で、多くの女性を助けてきていたムクウェゲ医師が、暗殺されそうになって海外に逃げてしまって、コンゴからいなくなってしまうのですが、そんな「ムクウェゲ医師に帰ってきて
ほしい」と女性たちが運動を起こしてムクウェゲ医師が返ってくるところの映像があるんです。
ムクウェゲ医師が帰ってくることになって、ムクウェゲ医師には護衛が付いて警察たちに守られながら戻ってきたときの、女性たちの喜ぶ様子が、すごく、心打たれました。
そこが私が一番泣いたシーンですね。
それだけひどい思いをして、助けてもらったムクウェゲ医師に戻ってきてもらうために運動を起こして、それを実現できた時の女性たちの喜びと、それを起こすことができた強さ。とても素晴らしいと思ったのです。
女性たちの喜ぶ姿に、ムクウェゲ医師のこれまでやってきたことの大きさを実感しました。
被害女性の中に見た、日本にもある女性差別の一面
ムクウェゲ医師がしている被害女性のケアの中で、傷ついた女性たちが心のケアのシーンがあって、そこでは被害女性たちが自分の受けたことやその気持ちを語っていたんです。
「暴行を受けた自分はけがれている」というようなことを話して泣いていて、性的な暴行はただ暴力を受けるよりも深く心を傷つけるものなのだろうと思ったんですね。
そう思いながら見ていて、ひとりの女性が、被害を受けたのは自分が悪かったのだろうと言われたといって泣いていたんです。
それを見たときに、これって日本でもあるなって思ったんですよね。
ただ一人でいただけで、いきなり襲われて、傷ついているのに、「お前が誘ったんだろう」とか言われるの。そういうの、日本でも見ますよね。
被害者側の女性が悪いって叩かれるんです。
それに気が付いたときに、日本でのジェンダー指数が途上国レベルなのってこういうことなんだろうって思ったんですよ。
戦争や紛争で乱れている国と女性の立たされている立場が変わらない。そう、思ったんです。
そんなことない、日本ではそんなにレイプなんてないっていいきれますか?私は言い切れないと思う。
アド塾(男女共同参画アドバイザー養成塾)で講師の方が、「日本では男性は先進国で、女性は途上国にいるのと同じなんです」っておっしゃっていた、その表現がすごくしっくりきたんですよ。
男性は先進国だから、途上国ほどどこでも性的な被害は起こらない。でも、その実、ふたを開けてみると声を上げることができないような被害が存在している。
薬を使ったもの、お酒で意識を失わせる、強い立場であることを利用して圧力で…そんなこと、たくさんあって、同意してないものであっても「明確に拒否しなかった」って女性に非があるとされる。そんなこと、たくさんあるじゃないですか?
そもそも、相手のことを本当に人として尊重しているのであればそんなことっておこらないと思うのですよね。
結局、自分の方が強い立場であると感じているから、そのようなことができるんだと思うんです。
だから、「今の日本では女性差別なんてない」という人もいることは、そもそもの根本的な問題に気が付いていないのだろうと、そう思ったんです。
女性が一人で夜道を歩いたら危ない。何かあったら一人で歩いていた女性が悪い。そんなわけがないんですよね。そういった認識が当然のようにあることが女性差別で、女性のことを低く見ているということなんだと、そう思ったのでした。
途上国で女性が一人で畑にいたら襲われるとか、一人でバスになっただけで襲われる…それと変わらないですよね。一人で夜道を歩いたらいけないって。
紛争地で起こっている、性的暴行は紛争地だけの問題ではなく、少し視点を変えれば日本でも隣り合わせの現実である、そう気が付いて少しのショックと、それがジェンダー指数の表すところなのだろうという納得するような感覚、両方を感じたのでした。
世界はジェンダー平等に力を入れている。日本も無意識にある差別に気が付いていくことが大切だと感じた。
2018年のノーベル平和賞受賞者は二人ともジェンダーにかかわる活動をされている人で、世界では本当にジェンダー平等が重要視されていることがわかります。
そんななか、日本は世界の中でも遅れていて、ちょっとした普通の日常の中に女性差別が多く残っている。
それを認識して解決していくことが非常に大切なことである。
そう感じた、デニムクウェゲ医師のドキュメンタリー映画、「女を修理する男」でした。
かなりむごい内容なのですが、多くの人が見て、気が付いてくれたらよいなって、そう思ったのでした。
それでは。
土出麻美でした。