「喉神」という違った視点から自分をとらえなおすことで個性や特性(自分らしさ)を受け入れて望む生き方を創っていく。土出麻美のエッセイブログ

人の本質を見るならフィルターは外すべきだ!って話。

 
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「Yes★喉神サマ⁈」の著者。 小学生と中学生の母親で義母のお世話もしている主婦。 社会福祉士の国家資格を持ち、福祉施設や行政機関で支援員・相談員の経験あり。結婚出産育児をきっかけに自分の心の闇と向き合うことになり、それがきっかけでヒプノセラピーやヒーリングなども学んだ。 県の男女共同参画アドバイザー養成塾を修了。
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人を理解しようと思った時にはその人自身をフィルターなしで見るべきだって話。

今回の記事はですね~。

私が「社会福祉士」という資格を持って、福祉施設で相談員として対人援助…つまりは支援とか相談とかしてきたプロとして、はっきり言いたいことを書きたいと思ってます。

 

過去にも実は似たようなことを書いてます。

2年近く前に書いた記事ですね!!

1年ぐらい前にリライトしたみたい。

 

この時と言いたいことは同じなんですが、何かの診断、鑑定とか、その他統計学を駆使した占いなんかもそうなんですが、それらってその人のすべてをうつしているわけではなくてですね、あくまでも一つのツール、一つの側面でしかないんですよね。

 

なのに、なぜか、その診断なり鑑定なりを通して人を判断しようとする人がいるんですよね。

 

それは、一個人がそうすることは個人の勝手なんですが、対人関係の仕事をする人がそうなのは問題なんじゃないかなぁと思うんですね。私の個人的な思いですが。

 

人を支援するって、そういう側面もあるんだなってことを頭に置いておくのは良いけれど、それよりもその人自体を見ることが大切。

 

結果ありきのその人ではないんですよね。

 

 

鑑定や診断結果というフィルターを通して人を判断することの危険性

何かの結果をもとに、そのフィルターを通して人を判断して決めつけることはとても危険なことです。

 

例をあげさせてください。

ちょっと極端すぎる例ですが…。

 

例えば私は、脳動脈瘤があるんです、小さなものですが。

脳動脈瘤とはクモ膜下出血になる原因になるもので、通常は高血圧の人がなります。

 

つまり、「脳動脈瘤がある」というフィルターで私を見れば、私は「高血圧の人」ということになります。

 

しかし、私自身は低血圧の人間です。血圧、低いんですよね。脳動脈瘤あるって言ったら、知識のある人はみんな高血圧だと勘違いします。

 

ここで、「高血圧だ!!」と決めつけて血圧を下げる薬を服用することは命の危険を意味します。なぜならもともと血圧が低いから。

 

まぁ、現実では血圧を測る前にMRIを撮ることなんてありえないし、血圧確認する前にそんな薬を処方されることはありませんが。

 

でも、なぜか対人の相談とかの場面ではそれと同じようなことが普通に行われていたりする

 

何か一つのものだけで判断して、そのことばかりを言う。それっておかしいとは思いませんか?

 

 

成育歴・家族構成・環境…どれもまったく同じ人なんて見たことがない

私は社会人になってから福祉関係の支援や相談にかかわる仕事につきましたので、とってもたくさんの人の成育歴や家族構成などに触れてきました。

 

ものすごく多くの、ものすごくディープな個人情報です。しかし、そのどれをとっても、誰一人としてまったく同じ人はいません。当たり前ですが。

 

同じ名前の障がいがあっても、同じ病気であっても、たとえ同じ誕生日であっても、誰一人としてまったく同じ人は見たことがありません。

 

似た側面はあったとしても、すべての人がまったく違った個性を持った人でした。

 

それなのに、なぜか、「発達障害の人は○○だ」とか、病気や障がいだけにかかわらず、「○○な人はこうだ」とか、そういった情報にあふれています。

それを一個人が勝手にそう思うのは勝手にすれば良い。自由だから。

 

でも、それで人を判断して、あたかもそれらの情報がすべてで当たり前のようにふるまって人を指導しようとする人がいることに疑問を感じるんですよね。

 

人ってそんなに単純なものじゃない。

 

そういった側面があるかもしれない。でも、その前にその人はそれとは別のいち個人であることを忘れてはいけないと思うんです。

 

注目するべきなのは情報ではなくて、その人、個人であるべきなんですよ。情報はその一部分だけ。

 

 

個人としての私を見てないな…と思うことがあった。

私自身が最近体験したことがあってこの記事を書いたんです。

 

その人は私を明らかにフィルターを通して、フィルターでしか私を見ていなかった。

 

コーチングを受けたんですね。

とてもまじめな、一生懸命な良い人でした。

 

その人は単発でコーチングを受けてみるのは良かったんですが、継続になった時に違うなって思った。

 

ちょっと特殊なコーチングで、「マヤ歴」というのを取り入れていたんですね。

それは確かに「あぁそういうところあるかもな」って思っておもしろかったんですが、その後私が感じたことは「私はマヤ歴の奴隷じゃない」でした。

 

私はマヤ歴では「赤い太陽」と「黄色い戦士」という側面があるらしくて、「黄色い戦士」という側面を出していくとうまくいくとか。

 

だから、私はその「黄色い戦士」って感じの動きをしないといけないってなってたんですよ。行動について。「それはダメ」とか、「もっと考えて」とかいろいろ言われるんですね。

 

でもね、私、ぶっちゃけ、赤とか黄色とかどうでも良くて、「マヤ歴」の前に「私」なんですよね。なぜ、私はマヤ歴のそれを達成するために私のしたいことをしたらダメなのかがまったく理解できない

 

私はマヤ歴とやらのために生きているんじゃなくて、「つちでまみ」として生きるためにいるのであってマヤ歴的にそうするべきだとか言われても意味不明なんですよ。

 

てか、むしろコーチングじゃないって思って。しんどくなるので「私には合ってない」ということを伝えました。

 

まぁ、あの人もまだ未熟…というか、これからいろんなことを学習していくのでしょう。というか、もっと成長されることを祈ります。

 

 

対人援助のあるべき姿とは。

そもそも、対人援助とは「ああしろ」「こうしろ」と指示を出すことではないと考えています。指示を出すことは対人援助ではなく、指導者とか、自分の思い通りに人を動かしたい場合になるかと。

 

対人援助、人を支援する場合に必要なことは、ヒントと選択肢を与えて対象者が自分で選択できるようにすること

 

対象者が自分で選択すること、つまり自己決定を促すことで、対象者の成長にもつながるし、対象者が自分の気持ちに向き合うことができる

 

そして、自己決定を重ねて物事を進めていくことを経験することで、対象者の自身にもつなげていって、対象者が自分でできる力を身に着けていけるようにすることだと思う。

 

指示に従わせることは対象者の依存性を高めることにつながってしまうんじゃないかな?指示を出すことの方が簡単だけど。

 

そして、何かの診断とか鑑定とか、そういった結果はほんの一つの側面でしかなくて、向き合うべきは対象者自身だ。

 

結果というフィルターを通してしまうと、その人の本来の姿はフィルターを通した形でしか見ることができずに、その本質とはズレたものになってしまう

 

もちろん、占いとか鑑定とか、そういうものをすべて否定しているわけではなく、一つの結果として楽しめば良いと思う。問題なのはそれで決めつけてしまうという行為であって。

 

これは占いとか鑑定とかだけでなくすべてに言えることで、障がいもだし、病気もだし、すべてにおいて言える。

 

 

理由がなくても人の特性を受け入れられるような社会になれば良いのに

人の特性…つまり他者の特性を理由なく受け入れられるような社会になれば良いのにって思います。

 

例えばですね、私って耳が悪いんですね。難聴なんです。普通に会話でいるレベルです。

 

「普通に会話できる=普通に聞こえる」という認識で多くの人は見ています。でも、私は良く聞こえないことがある。

 

私は聞こえにくいので、よく聞こえなかったときに「なんて?」とか「もう一回言って」と頼みます。

 

この場合、多くの人は気を悪くします。「良く聞こえなかったのかな?」って思う人はごくまれ。ほぼいません。いかにも「ちゃんと聞けよ」って感じでイラっとした様子になります。

 

私は「ちゃんと聞かない、何回も言わせる嫌な奴」です。

 

これが、耳が悪いことを伝えると、事態は一変します。

 

急に、「耳が悪い、かわいそうな人」になります。もちろん、丁寧に聞き取りやすいように伝えてくれます。だって、耳が悪い人だから。

 

でもね、「耳が悪い」って理由なくても、「聞き取れなかったのかな?」って思ってただ冷静に伝えようとすることができるような社会いなったら良いなって思うんです。

 

聞き取れないこともあるかもしれないし、意味がよくわからなかった…とかもあり得ると思うんですよね。そこで怒るのではなく、ただ相手に伝えることだけをできたら良いのにって思う。

 

先日、パート先で麻痺があるんだろうなって男性に商品について尋ねられました。

 

男性は麻痺があって活舌が悪く、はっきり話すことが難しい人でした。私は、耳が悪い人。最悪のコラボです。

 

私は何回も聞きなおし、男性は怒って「もういい!!」と言って去っていきました。

 

きっと「バカにして!!」って思っていたのでしょう。別にバカにしてなくて、一生懸命聞いてたんですが…。

例えばもし、私が胸に大きく「私は耳が悪いです」と書いていたら、あの人は怒らなかったのかな?

 

「耳が悪いです」という理由がわからないと、人は人にやさしくできないんだろうか?

 

もちろん、理由があったほうが優しい気持ちになれるのかもしれないけれど…。

 

「あの人はこうだから」そういう理由なしに、ただ「こういう人」ってお互いに認められるようになったら良いなって思っています。

 

結論。対人の仕事をする人は何かの結果よりも対象者自身を見ることでその人の本質を見ることができる。

というわけで結論です。

 

いろんな診断とかいろんな結果があるけれど、対人援助の仕事をする人はそれらよりも対象者の人にしっかり向き合うことがその人の本質を知るうえで大切なことです。

 

何かの結果とかは一つの側面であり、それにそんなに重点を置くことはその人を知ることには直接つながっていかないと考えます。

 

もっと個人個人にしっかり向き合って、その人にはどういう支援が必要なのかを判断するべき

 

というわけで、今回は「ちょっと言わせてくれよ!」って感じの記事でした。

 

それでは、つちでまみでした。

 

 

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「Yes★喉神サマ⁈」の著者。 小学生と中学生の母親で義母のお世話もしている主婦。 社会福祉士の国家資格を持ち、福祉施設や行政機関で支援員・相談員の経験あり。結婚出産育児をきっかけに自分の心の闇と向き合うことになり、それがきっかけでヒプノセラピーやヒーリングなども学んだ。 県の男女共同参画アドバイザー養成塾を修了。
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