新年度の担任の先生がすごく良い先生だったことに感謝している話
例年よりもずっと早くに梅雨入りした今年。
新年度が始まってまだそんなに経っていないような気持ちがしているのに、梅雨入りして雨が降っているなんていうことがどこか現実でないような気がしてしまうけれど、確かに現実で、外では本当に梅雨らしい雨が降っていて、もう「新年度が始まった」なんて言っている時期ではないのだなぁ…と気が付き始めた、今は5月の19日。(執筆時。2021年の5月でした。この後また記事の途中で投稿時期が少しズレます…)
この記事の目次
これまでの年度代わりよりもやや気になっていた新年度
年が変わるお正月よりも大きな変化があるのが年度の変わり目で、特に子どもがいると入学やら進学やら、大きな変化があるもので、我が家の子どもたちも4月に一つ学年が変わった。
いろいろあって、今回の年度替わりは、これまでよりも「次はどんな先生になるんだろう?」という気持ちが強めにあった。先生との連携が多く必要だったからだ。
新年度の担任の先生は予想をはるかに上回った良い先生だった
今回、この記事のタイトルにもあるように、本当に良い先生だったと思って感謝しているのが今年度(R3年度)の下の子の担任の先生で、この先生に担任を持ってもらうのは今回が初めてというわけではなく、実は2年生の時にも担任の先生をしてくれた先生だった。
過去にも担任をしてくれていたはずなのに、その頃にはこの先生がこんなに良い先生だとは全く気が付かなかった。きっと特に気にすることなく過ごしていたのだろうな…と、今になって思っている。気にする必要がなかったのか、それともほかのことを気にしていたのか、その時のことはわからない。もう忘れてしまっていて。
良い先生だろうとは思っていたが、そんな私の予想をはるかに上回った良い先生だった。まさに想定外。そうきたか!!というのが本音。
ただ一つ、本当にいえることは、あのまま、こんな人だったと気が付かないまま卒業を迎えてしまうことなく、「あぁ、こんなに良い先生だったんだな」ということに気が付く機会が得られたことに本当に感謝しているということ。
特に子どもが小さいうち、保育園ぐらいの頃は、先生ともよく話をするから「この先生ってこういう先生なんだな」と知る機会があるけれど、小学校に上がるとその機会はガクンと減って、ほぼあいさつ程度になるように思う。
家庭訪問やら懇談もあるし、参観日のようなものもあるけれど、それって非日常的なイベントのようなもので、先生の人柄に触れるというよりも、保護者向け営業モードの先生しか知っていないんじゃないかなと思わずにいられない。
保護者向け営業モードは通常の姿ではなく、どこか少しかしこまった、本来の姿ではない姿で、その姿ぐらいしか目にしないけれど、本来の人柄に触れることができたなら、もしかしたら学校の先生と子どもたちの保護者はもっと深く分かり合えるんじゃないか…?そんなことを考えるようになった。
話を戻して、新担任の先生。
上の子も小学生の頃に気に入っていた先生だった。というか、上の子なんかは自身が担任をしてもらったわけではなく、隣のクラスの先生だったけど、ずっと気に入っている様子だった。上の子も担任してくれたら良かったのにな…。
そんなことを考えてしまったら、上の子の担任をしてくれた先生に失礼かもしれない。別に上の子の担任をしてくれた先生が悪かったとか言うわけではなく、文句があるわけでもないのだけど、そして、もう済んでしまったことなのだけれど、気に入ってるなぁって思ってたから、その先生が担任だったら嬉しかったんだろうなと思ってしまう…。
というわけで、もともと良い先生なのだろうとは思っていたけれど、のんきに考えていた私の想像を上回った良い部分を持った先生だった。「良い先生」という何とも表現力のない言い方しかできない自分が悔しい。
無批判の温かさから得られる安心感
まず最初に、いかにも先生といった先生ヅラをすることなく、無批判、無指示的な態度であることが心地良かった。こちらが気にしそうなことがわかっていて、あえて口にしないのだろうなといった印象だった。
逆に、何かを言われることを想定して少し疲れている自分にも気が付かされた。
こちらが少しネガティブな自虐的なことを言ったときに返ってくる返答が想定外に前向きで、一朝一夕では出てこないような言葉が返せる人だと思った。きっと心から前向きにとらえることができる人なのだろう。
私が自分から自虐的なことを言うときは特に、相手の返答はこうだろう、と予測しているものがある。それは、「いやいや…」だ。「いやいや…(そんなことないですよの意)」が返ってくると思っている。
とりあえずそうやって何か批判されるんじゃないかと思うところを先に自分から言うことで、「いやいや(そんなことないですよ)」を返してもらう。そうやって向こうから批判されることを防ごうとする。
自分を守ろうとする方法として私がよくとるお決まりの行動なのだけれど、それは良い意味で覆され、守ろうとして固まった心が、逆にホンワカ温かくなるような結果に収まることとなった。
なるほど。
ほんの少しのやり取りだけで、この人の温かさを感じることができる。だから上の子は担任の先生ではなくてもこの先生のことが好きそうだったのだなと理解した。ちなみに、それ以外のちょっとした所作もなんだかかわいらしい。
ここでは冷静に書いているけれど、実際にそのやり取りをしたときにはひっくり返りそうなほどに驚いた。驚いたというより、衝撃を受けたといった方が正しいのかもしれない。
というか、なんで昔はこれに気が付かなかったのだろう?きっと、保護者向け営業モードのせいなんじゃないのか?それとも、私が自虐を持ち出さなかったのだろうか?考えてもわからないけど。
こんなことがあった後に、さらに気が付いたことがあった。
おそらく、特に何の話をしていなくても、一緒にいるだけで安心できる人なんだという感じがした。といっても私よりもとても若い先生なのだけど、なぜだか落ち着く感じかした。
「若い先生なのだけど」なんて表現は「若い人は頼りない」という前提のようで申し訳ないんだけれど、こんな安易な表現の考え方をしてしまう私がここにいる。
頼れる人かそうでない人かということに年齢は関係ないけれど、同じ人が若い時より年齢と経験を重ねた方がしっかりと頼れる人になるということは少なくないだろうと思う。
だから、若くても頼れる人というのはもともと持っているものだったり経験だったりが深いのだろう。
だからといって、少し頼りなくなく感じる人であることが悪いわけでもないと思う。いろんな人がいて、この世は楽しいんだと思っている。
先生ご本人はちょっとのきっかけでたまに自信なさそうな様子を見せることもあるのだけれど、なぜか頼りない感じはなく落ち着く太い芯のようなものを感じる人だと、私は感じた。
たまに見せる少しの自信がなさそうな様子や、大きな声で明るく笑う様子など、移り変わる表情がこの人がまわりの人から愛されるポイントなのだろうな…と思っている。
移り変わる表情の奥に優しく太い一本の芯を感じるから落ち着けるし、生徒たちも安心して過ごせるのだろう。
その一緒にいて落ち着くような感覚は、これまでの中でどこかで感じた、誰かに似た、懐かしいような感覚で、誰だったか思い出そうとしても思いだせそうで思い出せないというか、思い出すけど、でもちょっと違うような、そういった不思議な感覚だった。スピ業界で言うソウルメイトとかそういう類なのかもしれないし、そうでないかもしれないけど、それは別にどっちでも良かった。
はっきり言えることは、自分を守ろうとする必要がないということは安心できるということにつながるのだということだな。
ちなみに、私は耳が悪いので、結構よく話をちゃんと聞き取れていなかったりして聞き返すことがあるのだけど、聞き返した時の反応も、めちゃ優しく丁寧でびっくりする。
難聴になってから30年以上(いや、35年以上かな…)生きてきたけど、こんな人は初めて。
身近に暖かな人がいると生活が豊かに感じられるのだろう
とにかく、こういう人が身近にいたんだということを知らないままにすぎることなく、気が付くことができたことが本当に良かったなぁと思って、気が付けたことに感謝した。せっかく良い人が身近にいるっていうのに気が付かないままできるなんてちょっとした損失だと思う。
良い人悪い人なんてのは誰かの主観にしか過ぎない。でも、自分が「良い人」「心地よい人」と感じる、自分の主観は自分だけのものだから、自分にとっての「良い」は良いで間違いないのだから、それを知れることは嬉しいことだと思っている。
自分が好意的に感じられる人が身近にいることは、毎日の生活が少し豊かに感じられるものに変えられると思うからだ。
新学期が始まってしばらくたって、少し苦手らしいことや、少しだけ抜けてる部分もあるんだなぁと気が付いてきたけれど、それも人間らしさであって良いと思う。何より、そんな少しの苦手なことよりも、ずっと大切なモノを持った人だと思うし。
というか、私にないものを持っている人だ。そして私の方がよく抜けてる。自分で愛嬌だということにしている。良いのよ、そんなもんでしょ。
基本的に、「この人ってこういう人なんだな」って深く知ることは好きだ。
そんなこんなで、今年度一年よろしくお願いしたいなぁと思う。
っていうか、一年で過ぎてしまうのではなく、どこかでつながっていけたら良いのになと思う。
そんな、梅雨の始まりの日記。